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浦和地方裁判所 平成4年(わ)258号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  公訴事実の要旨

被告人は、法定の除外事由がないのに

一  平成四年二月二五日頃、東京都北区(中略)マンション一一〇三号室被告人方(以下「被告人居室」という。)において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンを含有する水溶液若干量をA子の右腕部に注射し、もって、覚せい剤を使用した。

二  前同日、前記場所において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンを含有する水溶液若干量をB子の右腕部に注射し、もって、覚せい剤を使用した

ものである。

第二  本件の争点

本件は、A子及びB子の両名が、平成四年二月二五日午前零時頃から同日午後四時三〇分頃までの間(ところで、犯行日時について、起訴状の公訴事実には、第一記載のとおり、同日頃と時間的にかなり幅のある記載となっているが、検察官の冒頭陳述ではこれが同日午前二時頃と限定され、論告においてはこれが右公訴事実記載と同様同日頃となっている。しかしながら、本件で取り調べた関係各証拠及び検察官及び弁護人の立証活動に徴せば、検察官が本件を、A子とB子が被告人居宅にいたとする右同日午前零時頃から同日午後四時頃までの出来事として捉えていることは、明らかである。)、被告人居室において被告人から覚せい剤を無理やり注射されたという事案であるが、被告人は、捜査段階以来、一貫して公訴事実について全面的に否認しているところ、右同日、A子及びB子から採取した尿の中から覚せい剤が検出されていることから、A子及びB子が、右同日またはそれに近接する日に覚せい剤を使用した事実はほぼ疑いのないところである。

したがって、本件における最大の争点は、平成四年二月二五日午前零時頃から同日午後四時三〇分頃までの間に、被告人がA子及びB子に対して覚せい剤の水溶液を注射したのか否かにある。

しかるに、後に判示するとおり、本件においては、被告人がA子及びB子に対して覚せい剤を注射し、もって、覚せい剤を使用したことを推認させるに足りる状況証拠に乏しく、公訴事実を直接に裏付ける証拠は、A子及びB子の各証言のみである。

そこで、以下、本件の前提事実を確定し、A子及びB子の各証言の要旨を摘示したうえその信用性について検討し、更に、その余の証拠についても検討することとする。

第三  当裁判所の判断

一  前提となる事実

以下の各事実は、〈証拠省略〉により認めることができ、検察官及び弁護人も概ね争わないところである。

1  被告人は、二年程前に被告人の友人の紹介で、中学校の後輩で夫のいるA子と知り合って愛人関係に陥り、同女に対し、夫と離婚して被告人と結婚するよう求めたりした。これに対し、A子も一時は夫と別れて被告人と一緒になることさえ考えたこともあった。

2  A子とB子は、一〇年以上の付き合いの友人であり、B子は、A子の紹介で被告人と知り合った。

3  本件犯行日とされる平成四年二月二五日の前日である同月二四日の深夜、被告人は、A子に電話を掛けて直に会うことを約束し、自動車を運転してA子を迎えに行ったが、その前に同女がB子と会う約束をしていたため、A子を乗せてからB子宅に迎えに行き、その夜、被告人が言い出して三人で前記被告人居室に行くことになり、二五日午前零時頃、三人は被告人宅に到着した。A子とB子は、以後被告人居室が鴻巣警察署派遣埼玉県警察本部保安課司法警察員乙野警部補らにより捜索を受けた同日午前四時三〇分頃までの間、同居室に滞在していた。

ところで、被告人居室は、東京都内の通称明治通りに面した鉄筋一一階建高層マンションの最上階の通路突き当りに位置する建物部分で、同居宅の出入口は玄関のみであり、右居室内の部屋の配置関係は、別紙図面のとおりである。

4  乙野警部補らは、被告人に関する覚せい剤取締法違反事実の情報を得たことから、かねてよりその内偵及び被告人の身辺捜査等を実施し、被告人方居宅に対する捜索・差押許可状の発布を得て、鴻巣警察署員らと共に、同日午後二時二五分頃被告人居室に到着したところ、同居室内に人の在宅することが窺われたことから、玄関戸を叩いたものの、何ら応答がなかった。そこで、乙野警部補らは、東京都板橋区所在の帝京大学附属病院に入院中の被告人の実母甲野花子の許に捜査官を遣わし、同女の看病に来ていた被告人の実父甲野次郎から被告人居室の鍵を借り受け、同日午後四時二一分頃、右鍵を用いて同居室の戸を開けようとしたところ、戸が約一五センチメートルしか開かず、内部からドアチェーンが掛けられていたが、その隙間より被告人が姿を現したことから、乙野警部補らは、被告人に戸を開けるよう求めた。すると、被告人は、これに応じなかったばかりか、同居室のベランダに出たうえ、同所にある高さ約1.1メートルの鉄製手摺りの上に立ち、頭上にある屋上の縁に手を掛けて屋上に攀じ登り、屋上を同マンション別室の一一一五号室丙野方居宅真上まで進み、そこから屋上の縁に手を掛けて同方居宅にぶら下がって降りたうえ、同居宅内を通り抜け、その玄関から共同通路に飛び出して、一一階から一階まで非常階段を急いで駆け降り、同マンション一階裏側駐車場から外部に逃走したため、右鴻巣警察署員らにおいて被告人を追尾したものの見失い、その後同マンション付近を捜索したが、被告人を発見するに至らなかった。

5  他方、乙野警部補らは、同日午後四時五五分に捜索のため、甲野次郎の了解を得てドアチェーンを切断し、同人立会のうえ被告人居室内に立ち入り、四畳半間の電気炬燵内に潜んでいたA子とB子の両名を発見したことから、両名に対して腕部を見せるよう求めた。

これに対して両名はこれに素直に応じたが、両名の右腕部にはいずれも注射痕が認められた。これについて、A子は、同日午前二時頃に被告人に覚せい剤を注射して貰った旨、B子も同日朝被告人から覚せい剤を注射して貰った痕跡である旨それぞれ申し立てた。

そこで、乙野警部補らは、A子とB子に対し、それぞれ尿の任意提出を求めたところ、右両名もこれに応じ、同日午後六時一〇分頃に被告人居室トイレ内において採尿がなされ、両名の尿がいずれも任意提出されたことから、尿中覚せい剤予試験を実施したところ、両名の尿中に覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが検出された。そのため、両名は、同日覚せい剤取締法違反の容疑で緊急逮捕された。

なお、B子から採取された尿が正式な鑑定を嘱託するためには少量であったことから、B子は、警察官の求めにより、改めて同日午後一〇時五分頃、鴻巣警察署内において採尿したうえ、これを任意提出している。

6  ところで、乙野警部補らは、同日午後四時五五分から被告人居宅の捜索を開始し、A子、B子及び甲野次郎の立会の下に同日午後五時五八分まで右捜索を継続実施し、その後A子及びB子から尿の任意提出がなされた後に両名を緊急逮捕し、これと並行して被告人居宅の捜索を続行したが、注射器・注射針・覚せい剤等被告人居宅における覚せい剤使用の事実を裏付けるに足りる物件を発見するには至らず、同日午後六時四二分被告人宅の捜索を打ち切った。

7  なお、被告人は、昭和六三年九月一三日、東京地方裁判所において、覚せい剤取締法違反の罪により、懲役一年六月に処する(執行猶予四年付)旨の判決宣告を受け、本件事件当時は執行猶予中の身であった。

二  A子証言の要旨

A子の二回証言及び同女の当公判廷(第七回)における証言は、概ね以下のとおりである。

1  被告人は、自ら覚せい剤を使用し始めてから、A子に対しても覚せい剤を注射するようになり、このため、A子は、被告人と共に警視庁王子警察署員に二度に亘り逮捕されたこと(なお、A子は、たまたま尿から覚せい剤反応が出なかったことから、二回とも処分保留のまま釈放された。)、覚せい剤を使用すると心臓に過大な負担が掛かること、二歳になる幼児を抱え母親としての自覚に目覚めたことなどから、覚せい剤の使用を止めようと考えるようになったが、被告人との関係をこのまま継続していれば、覚せい剤を使用し続けることになってしまうのではないかと危惧の念も抱き、他方、一時は夫と別れて被告人と結婚することまで考えたりしたこともあり、思い悩むようになった。このようなことから、A子は、被告人に対し、覚せい剤と縁を切りたいことや、被告人とも別れたい旨話したところ、被告人は、これに腹を立て、A子に対し、同女の愛児をぐちゃぐちゃにして家の前に置いてやるなどと同女が恐怖感を抱く内容の発言をなしたりした。このため、A子は、被告人がそれまでは同児を可愛がってくれたり、また、同児も被告人に懐いていたことから、非常に驚くと共に強いショックを受けた。

このようなことから、A子は、被告人との関係を清算すべく気心の知れたB子に相談に乗って貰っていた。

ところで、A子は、自分から被告人に覚せい剤を射って貰いたいと思ったことはなく、また、今までに覚せい剤を注射して気持良いと思ったこともない。

2  A子は、平成四年二月二五日午前零時頃、B子と一緒に被告人居宅を訪れた際、被告人には落ち着きがなくその様子もおかしいと思われたが、同居宅に行くことについては被告人が言い出したため、これを断ると被告人の言葉による暴力が怖かったから、同居宅に行くことについて特に反対はしなかった。

3  被告人は、被告人居宅において、A子と結婚したいというような内容の話をしたが、その時も、被告人は、カーテンを明けて外の様子を窺うような感じで、そわそわしていた。

4  本件事件当日、被告人宅には、A子、B子及び被告人の三人以外には誰もおらず、XやYという人物はいなかった。

なお、A子は、被告人宅で食事を取っていないが、それは、覚せい剤を射たれたため食欲が全く湧かなかったからであり、別れたいと思っていた被告人と一緒にいるのが苦痛でたまらなかった。

5  被告人は、被告人居宅に着いてから一〜二時間程した頃、ソファとテーブルのある部屋において、A子とB子のいる面前で覚せい剤の話をし始め、その後、B子がトイレに立って三〜五分位席を外した隙に(したがって、B子は、被告人が以下のとおり、覚せい剤を準備し、A子に覚せい剤を注射しているところを見ていない。)、テーブルの下から小さなビニール袋(パケ)に入った覚せい剤と注射器を取り出し、テーブルの上にあったコップの水を使って注射液を作り、A子に「やろう。」と言ってきた。これに対し、A子は、「もう止めよう。」と言ったものの、被告人から覚せい剤を射って貰わないとその場に居られないというような恐怖感に駆られ、怖かったため仕方なく承諾し、被告人から右腕に覚せい剤を注射された。

ところで、A子は、検察官の取調べの際にパケの見本を見せられ、被告人が使用したパケの大きさや覚せい剤の量について説明したが(検察官証拠等請求関係カード甲によれば、平成四年三月五日付及び同年四月二一日付で同女の検察官面前調書が作成されている。なお、これらは不同意書面である。)、今(第二回公判期日である同年八月一八日)聞かれても、それがどの位の大きさのパケであったのかとか何グラムであったのかは思い出せない。

6  A子は、注射された後、耳なりがして気分が悪くなり、ソファに横たわっていたところ、トイレから戻って来たB子から、「大丈夫。」と声を掛けられたが、その時は恐怖心もあって、一切声を掛けないで放っておいて貰いたいという気持であった。

7  その後、A子は、気分が楽になった時に、B子がソファに座ったので、「どうしたの。」と声を掛けると、B子が「やられた。」と言った。それで、A子としては、現場を目撃した訳ではないが、B子がA子同様被告人から覚せい剤を注射されたのだと思った。

なお、A子は、B子がこれまで覚せい剤を使用したことがないから、今回自分で注射したということはないと思っている。

8  A子とB子に使用した覚せい剤は被告人居宅にあったものであり、A子から被告人に対して覚せい剤が手に入ったなどと話したことはない。

A子は、被告人が同女とB子に対して使用したパケに残った覚せい剤と注射器を白いケースにしまったうえ、B子が注射された後にこのケースをテーブルの下に置いたのを見ているが、被告人が同居室内から逃走した後に、乙野警部補や鴻巣警察署員らが被告人居宅を捜索した際に、B子と一緒になって、右ケースを探したが見付からなかった。

9  A子は、被告人から、「お前達に覚せい剤を注射してやったから俺と同罪だ。俺から逃げられない。警察に捕まる。」というようなことを言われた記憶はない。

なお、A子は、被告人から注射される前だったと思うが、被告人が覚せい剤を射つのを見ている。

10  警察が来た際には、何度も呼鈴が鳴ったが、被告人は、応対に出ようとはせず、A子らに対し、「炬燵のある部屋に行って、炬燵の下に隠れていろ。」と言った。

11  そして、被告人が「誰ですか。」と答えると、「鴻巣警察です。」との応答が聞こえたが、「令状はあるのか。」というような声は聞こえなかった。

その後、被告人は、「今すぐ開けるから。」と言いながら、玄関ドアにチェーンロックを掛けたうえ、同ドアの鍵を開けたものの、その直後に炬燵のある部屋を通ってベランダに出て、被告人居宅から逃走した。

12  暫くすると、チェーンロックの切れる音がして、警察官が被告人居宅内に入って来た。そして、A子らは、炬燵蒲団をめくられ、警察官に発見されたうえ、その場で腕を見られ、尿の任意提出を求められた。そこで、A子らは、これに応じ、その場で尿の覚せい剤簡易検査が実施された結果、覚せい剤反応が出たことから緊急逮捕された。

13  ところで、被告人は、これまでA子に対し、愛しているとか結婚したいとか言っていた癖に、いざとなると同女を置いて自分一人だけで逃げており、このことについて極めて悔しいと思うと共に精神的にショックを受けており、また、覚せい剤を射たれた被害者として、被告人に対して反感や恨みを抱いている。

14  A子は、当日、被告人から覚せい剤を打たれた後に、自分で覚せい剤を注射したことはない。

15  なお、A子とB子は、緊急逮捕された後に勾留されたが、両名の身柄は鴻巣警察署の同一の房で拘束されていた。

三  B子証言の要旨

B子の二回証言及び同女の当公判廷(第七回)における証言は、概ね以下のとおりである。

1  B子は、A子から、以前より交際している被告人と別れたいので、相談に乗って欲しいと言われ、色々と相談に乗っていたが、A子は、被告人が同女の子供をぐちゃぐちゃにすると言ったり、同女宅ドアを蹴飛ばしたりするので、被告人のことを怖いと言っていた。

なお、B子は、被告人とは以前に一度会ったことがある。

2  B子は、平成四年二月二四日にA子から、相談したいことがあるとの電話を貰ったことから、B子宅に来るよう述べたところ、A子が被告人と一緒に来た。B子としては、被告人が一緒に来るとは思っていなかった。そこで、同女にB子宅で話そうと言ったところ、被告人が、「二人で話さないで、うちに来て話せばいいじゃないか。親も誰もいないから。」と言って被告人居宅に来るよう強引に誘った。

その時のA子は、B子に訴えかけるようなどうしたらいいかわからないという素振りをしていたが、B子は、A子から被告人が前々から覚せい剤を注射したりしている人であると聞いていたこともあって、その時の被告人がとても早口で喋っていたので、もしかしたら被告人が覚せい剤の注射をしているのではないかと思い、被告人に対して恐怖感を抱いた。

しかし、B子は、被告人居宅に行ってどうこうするとまでは考えていなかったものの、A子が親友であり、どうにかしなければという気持があったことから、同女と一緒に被告人宅に行くことになり、午前零時頃に被告人居宅に着いたが、そこには被告人の言うように誰もいなかった。

そして、B子は、気分が悪かったので、マンションに着いてから直にトイレに行った。

3  ところで、B子は、当時自律神経失調症で通院しており、このような状態で被告人居室にいると非常に気分が悪くなり、帰りたくて仕方なかったので、被告人には分からないようにして、A子に帰ろうと言ったが、被告人が落着きがなく、物音を気にしたりするなど異様な様子であったことから、とても帰れるような雰囲気ではなかった。

そして、B子は、被告人居宅で、被告人とは余り話をせず、専ら、A子と帰りたいというような話をしていた。

4  B子は、その後トイレに行き戻って来ると、A子がソファにもたれ掛かって様子が変だったことから、「どうしたの。」と訳を尋ねても、同女は「放っておいて。」と言うだけで、その訳を答える様子もないので、被告人に対し、「A子に何かしたの。」とか「覚せい剤じゃない。」などと尋ねても、被告人は、「何でもない。」と答えるだけであった。しかし、B子は、A子が被告人から覚せい剤を射たれたのではないかと思った。

なお、B子は、その時、机の上にビニール袋に入った小さな白い薬のようなものは見ているが、注射器は見ていない。

5  B子は、被告人居宅に行ってから二〜三時間した頃(同居宅に行ったのが午前零時頃だから午前二〜三時頃になる。)被告人から、「注射をしよう。」と誘われたので、「頭が病気だから。」などと言って断ったものの、被告人から、「覚せい剤ではない。大丈夫だから。」などとしつこく言われたうえ、右腕を引っ張られて注射されてしまい、射たれた腕は腫れてとても痛くなった。B子は、これまで覚せい剤の注射をしたことがなかったこともあって、気分が非常に悪くなり、トイレで戻したりして、その後も暫くの間気分が悪かった。

6  被告人は、B子とA子に、「お前達に覚せい剤を注射してやったから俺と同罪だ。俺から逃げられない。警察に捕まる。」などと言った。

7  当日、B子が注射器を見たのは、被告人から注射された時だけであり、その後、使用後に残った覚せい剤や注射器などがどのようにしまわれたのか一切判らない。

8  何時間もした後、玄関の呼鈴が鳴り、戸をドンドンと叩く音がした。すると、被告人に落ち着きがなくなった。そして、「鴻巣警察だ。」という声が聞こえ、これに対して被告人が、「令状はあるのか。」というようなことを言い、B子とA子に対しては、「警察が来た。お前達はあっちの部屋に行っていろ。炬燵の中に隠れろ。」と言うため、B子とA子は、炬燵のある部屋に行き、炬燵の中に入ったが、A子が気分が悪いなどと言うので、B子は、A子に「大丈夫。」と声を掛けたりした。

すると、被告人がベランダから逃げて行った。B子は、自分達はどうなってしまうんだろうと思う一方で、警察の人が来てほっとした気持になった。

9  B子は、被告人からひどいことをされたと思っており、悔しいという気持を抱いている。

四  A子及びB子の各証言の信用性

1  被告人とA子及び同女とB子の関係

A子は、以前より被告人と交際していたが、現在では被告人との関係を清算したいと悩んでおり、したがって、A子が被告人との関係を絶つために被告人に不利な供述をする可能性は否定できない。また、B子は、A子と気心知れた親しい友人関係にあるうえ、A子が被告人と如何にして離別するかについて相談に乗っていたのであり、しかも、A子とB子が逮捕・勾留された際、両名は、鴻巣警察署留置場の同房に身柄を拘束されていたことなどを勘案すると、B子がA子の意に沿うような内容の供述をなす可能性も払拭できない。

したがって、A子とB子の各証言中に合致する部分があるとしても、その信用性に疑いを挾む余地が存することは否定できない。

2  A子とB子の各証言について

Ⅰ A子が被告人から覚せい剤の注射を射たれたことに関するA子とB子の各証言の合致する部分

① A子が被告人から覚せい剤を注射をされたのは、B子が部屋から出てトイレに行っている間であったことから、B子はその現場を見ていないこと

② B子がぐったりしているA子を見て様子を尋ねると、A子は、

「放っておいてくれ。」と言ったことについて右両名の証言は合致している。

Ⅱ A子とB子の各証言の不一致について

① A子は、被告人から覚せい剤を射たれる前に、被告人が同女とB子の面前で覚せい剤のことを話していたと証言しているが、B子はこれについて一切触れていない。

しかしながら、B子は、今回被告人から覚せい剤を射たれるまで覚せい剤を使用したことがないうえ、被告人に覚せい剤使用歴があったことから、被告人に対し恐怖感すら抱いていたというのであり、A子が証言するように、被告人から覚せい剤を射たれる前に、仮に同女とB子の面前で被告人から覚せい剤のことが話に出ていたとするならば、B子としてはこのことがかなり印象に残っていても良いはずであり、したがって、この点について証言しても良いと思われる。

また、B子は、被告人がA子に覚せい剤を注射したことを否定しているにも拘らず、被告人がA子に覚せい剤の注射を射ったと推測する根拠として、B子がトイレから戻って来ると、A子がソファにもたれ掛かり様子がおかしかったこと、被告人が前々から覚せい剤を使用していることを掲げているが、当日、被告人が同女とB子の面前で覚せい剤の話をしていれば、B子は、これをも推測の根拠の一つとして、証言するものと思われるにも拘らず、B子がこれについて一切触れていないのである。

このように、A子とB子の各証言間には、看過し難い不一致部分を生じている。

② A子は、被告人から、「お前達に覚せい剤を注射してやったから俺と同罪だ。俺から逃げられない。警察に捕まる。」などと言われた記憶はないと証言するが、B子は、被告人がA子とB子に対し覚せい剤を注射した後で、被告人からこの言葉を聞いたと証言し、両名の各証言間に不一致が生じている。

これについては、被告人がA子との関係を継続したいと思っているならば、被告人のかような発言は、本来的にはA子に向けられているものと思料されるから、仮にそのような発言があったとすれば、B子だけが聞いてA子が聞かなかったと言うのは不自然である。

Ⅲ① B子は、A子が覚せい剤を注射された直後にトイレから戻って来た際に、右覚せい剤の使用に供した注射器をテーブル上はもとより室内で見ていないのであるから、被告人がこの注射器を隠したことになるが、A子は被告人による右隠匿状況について一切証言していないし、また、A子には本件前に覚せい剤使用歴があるのであるから、覚せい剤の量・パケの大きさなどについて、ある程度の知識を有しているものと思われるうえ、被告人に半ば強制的に覚せい剤を注射されたという異常体験をし、且つ、その際に覚せい剤入りパケを見ているというのであるから、本件で被告人の取り出したパケの大きさや覚せい剤の量について相当印象に残っているものと思料でき、検察官の取調べの際に、これらについての見本を示されたうえ、被告人の覚せい剤使用について供述しているにも拘らず、本件後僅か五ケ月余りしか経ていない公判廷において、被告人の使用した覚せい剤の入ったパケの大きさとか覚せい剤の量等覚せい剤使用に関する個別的な事情について質問されても、これらについて明確な証言をなすことができなかった。

また、A子は、当時覚せい剤注射を止めたいと考えていたのであるから、被告人から覚せい剤を注射すると言われて半強制的にこれを射たれたというのであれば、その際、同女と被告人との間には、種々言葉の遣り取りや行動がなされたはずであるが、同女は、これについて詳細且つ具体的な証言をなしていない。

したがって、A子の被告人から覚せい剤を注射されたとの証言内容は、覚せい剤を注射した者が一般的に述べる程度の域を脱しておらず、同女が被告人から半強制的に覚せい剤を射たれたという経緯を踏まえるならば、その証言は、決して具体性のあるものとまでは言えず、新鮮味・迫真性にも欠けるものであり、更に、被告人が同女を翻意させたり或いは強制力を用いたりするのに、それなりの時間が必要であると思われるところ、B子がトイレに立った僅か三〜五分間という短時間内に覚せい剤を注射されたというのは、余りにも不自然であり、説得力にも欠けると言わざるを得ない。

② また、A子とB子の各証言によれば、被告人は、B子が僅か数分の間トイレに行って部屋にいなくなったのを見計うかのようにして、覚せい剤を嫌がるようになったA子に対して覚せい剤を注射し、その後直ちに注射器を隠匿していることになり、しかも、B子からA子に覚せい剤を用いたのではないかと尋ねられてもこれを否定しているが、被告人のかような言動は、被告人がA子に覚せい剤を注射し、もって、被告人が覚せい剤を用いたことをB子に判らないようにするためになしたというのであれば、それなりに了解できるところであるが、この後で、被告人が、今まで覚せい剤に手を出したことがなく、覚せい剤を注射することを嫌がっているB子に対し、無理矢理覚せい剤を注射し、このことにより被告人が覚せい剤犯罪を行ったことをB子に対して明らかにしているのであるから、先に被告人がA子に対して覚せい剤を注射し、もって、被告人が覚せい剤を用いたことをB子に隠さなければならないことの合理的理由は見い出せない。

③  B子が被告人から覚せい剤を注射されたとする際の同女の証言内容は、A子が被告人から注射された旨の同女の証言よりも一層具体性・新鮮さに欠けるもので、真実に迫っていると窺わせるに足りるところは全くなく、また、同室していたA子は、被告人からB子が注射された際、具合が悪くて横たわっていたので、その状況を一切見ていないというのも何とも不自然であり、説得力に欠けると言わざるを得ない。

④  かように、A子とB子は、両名共被告人居宅にいて被告人から覚せい剤を射たれているにも拘らず、互いが被告人から覚せい剤を射たれている現場を見ていないこと及びA子とB子が被告人から半強制的に覚せい剤を注射されたとする理由についての右両名の各証言内容は、誠に説得力に乏しいものである。

以上指摘したことは、A子とB子の各証言内容の信用性を著しく減殺するものであると言わざるを得ない。

Ⅳ 客観的証拠との合致の有無

A子の二回証言に、「被告人は残った覚せい剤や注射器はテーブルの下に置いてある白いケースに入れていた。」とあるが、被告人が覚せい剤をA子及びB子に注射したとされる約一四時間後に、乙野警部補らにより被告人居宅の捜索及びその周辺の探索が念入りに行われているにも拘らず、同居宅からは注射器、注射針、パケ及び覚せい剤等同居宅内で覚せい剤を注射したことを裏付けるに足りる客観的証拠が一切発見されていない。

① この点について、A子及びB子の各二回証言、右両名の当公判廷における各証言、被告人の三回供述及び当公判廷における供述によれば、被告人は、A子とB子に覚せい剤を注射したとされる時から乙野警部補ほか鴻巣警察署員らによる捜索が開始された後に逃亡するまでの間、被告人居宅から一切外出していないのであるから、同居宅に入った右警察官らにより直ちに発見されたA子及びB子において、注射器、注射針、パケ及び覚せい剤等を外部へ持ち出した形跡が窺えない以上、被告人が、被告人宅から逃げ出した際に同居宅外へ持ち出したと考えざるを得ない。

② しかしながら、被告人は、乙野警部補ほか鴻巣警察署員らによる被告人居宅の捜索が着手されるや、直ちに同居宅からの逃走を始めており、このような瞬時のうちに、本件覚せい剤使用に用いたとされる前掲注射器、注射針、パケ及び覚せい剤等の全てを室内に隠匿することは容易ではなく、しかも、前判示の逃亡の経路・態様等に徴すると、被告人がこれらを携えて逃走したと考えることも困難である。

③ 即ち、被告人は、当時赤いスエット上下を着ており(この点については、被告人の供述のほかに、「上から赤色上下の服装をした甲野さんの伜さんが屋上からぶら下がって降りて来た。」との丙野の平成四年五月一日付司法警察員面前調書がある。)、このような服装を考慮すると、被告人が注射器、注射針、パケ及び覚せい剤等を持って逃げたとすれば、その際、被告人はこれらの物件を手に持って逃亡したと考える外ないが、被告人の供述及び丙野の右調書によれば、被告人は、ベランダの手摺り上に立ち上がり、屋上の縁に両手を掛けて屋上に攀じ登っており、このような逃亡方法では、被告人が両手で体を支えて屋上に上ることによってのみ始めて成功し得るものと思料できるから、被告人がこれらの物件を手に持って逃亡することはまず不可能であろう。

④ なお、逃亡の過程で被告人が覚せい剤を捨てた可能性も絶対に有り得ないという訳ではないが、被告人居宅のあるマンション周辺にはそれらが隠れるような茂みなどが存したことが本件において取り調べた証拠上窺えないのであるから、被告人が逃亡時に覚せい剤等を持って逃げ、或いは、逃亡の途中で廃棄したと考えるのは極めて困難である。

⑤  とすれば、被告人宅の捜索によって覚せい剤等が発見されなかったという事実は、A子及びB子証言の信用性に疑いを生ぜしめるものであるとともに、本件公訴事実が存在したことを認定することについて重大な妨げとなる事情であると言わざるを得ない。

五  Xの証言の信用性について

1  A子とB子は、被告人居宅において被告人から覚せい剤を射たれた日に同居宅にいたのは、A子とB子及び被告人の三名だけであると一貫して証言しているが、Xの三及び五回各証言には、これに反する内容があるうえ、被告人がA子とB子の両名に覚せい剤を注射した事実はない旨の証言もある。

2  ところで、事件当日のA子及びB子の髪型・服装に関するXの証言部分は、〈証拠省略〉と合致しており、これらからすれば、Xの証言は信用が置けるかのように見える。

3  然しながら

Ⅰ Xは、第三回公判廷において、本件事件当日、被告人居宅には、A子、B子及び被告人の外にXがいたと証言しながら、第五回公判廷において、右四名の外にYもいた旨証言内容を変遷させている。

これについて、Xは、第三回公判廷において前記四名がいた旨証言したのは、「本件犯行当日に被告人居宅にいたのは、被告人、A子、B子及びXの四名のみであったのか。その他に誰かいなかったのか。」と明確な形で質問を受けなかったことから、Yが一緒にいたことを証言することができなかった旨証言している。

ところが、Xは第三回公判廷において、「四人で仲良くやってました。」と明確に証言しているのであり、Xの第三及び第五回の右各証言部分は明らかに矛盾しているし、また、Xの右証言の変遷理由も合理的であるとは言い難い。

Ⅱ Xは、勾留されている被告人と面会した際、被告人が、Xに対して「A子とB子に覚せい剤注射をしたことで捕まっているが、自分はやっていないので多分大丈夫だ。」と述べた旨証言しているところ(Xの五回証言)、被告人は、第七回公判廷において、Xに対してそのような話をした覚えはないと供述し、Xの右証言内容を否定している。

Ⅲ また、Xは、第五回公判廷において、本件事件当日、被告人がA子らに覚せい剤注射を射ったことはない旨証言しているが、仮にこれが真実であれば、被告人は、Xが事件当日被告人居宅にいたことを捜査官に告げて、Xにその旨証言して貰うことにより、被告人の無実を証明することが可能となるのであるから、Xが鴻巣警察署に勾留されている被告人と面会した際に、Xと被告人との間で、このことについて相談しても良いはずである。

然しながら、Xは、そのことを捜査官に話すべきか否かについて被告人と一切相談しなかった旨証言している。果たして、被告人の身を心配してわざわざ留置場にまで出掛けて被告人と面会しているX及び無実を主張している被告人の両名が、Xにおいて被告人に対する捜査官の疑いを晴らす重要な鍵を握っているにも拘らず、被告人がA子とB子に覚せい剤を注射していないことを事件当日被告人居宅で被告人らと行動を共にしたXにおいて証言できることを捜査官に申告すべきか否かについて全く話し合わないということは、あり得ることであろうか。誠に不可解であると言わざるを得ない。

4  被告人の供述とXの右証言には、このような看過し得ない矛盾点・不可解な点がある。このことは、Xが勾留されている被告人のところへ五回も面会に行って(鴻巣警察署に二回、被告人が浦和拘置所に移監されてからも三回面会に行っている。Xの五回証言)、被告人から無実の罪により捕らえられている旨聞かされ、被告人の意に沿うような形で証言したという可能性も否定できない。

したがって、本件事件当日、被告人居宅に、A子、B子及び被告人以外の者がいた旨並びにこれを前提に被告人がA子らに覚せい剤の注射した事実はない旨のXの前記証言部分は、到底信用することができない。

六  その他の状況証拠

1  二人の注射痕が右手にあること

A子とB子の注射痕はいずれも利き腕の右手側にあり、自分では覚せい剤を注射できない旨の両名の各証言からすれば、このことは被告人の本件公訴事実を認定する有力な資料となり得るものであるが、そもそも両名の右各証言については、前判示のとおり信用性を肯定し難いものである。

したがって、本件で、両名が覚せい剤を何らかの形で使用したことは明らかであるものの、両名が互いに覚せい剤を注射し合った可能性、或いは、被告人以外の他人から注射された可能性も払拭することができない。

してみると、A子とB子の各右手側に注射痕があることのみをもって、本件公訴事実を認定することは困難である。

2  被告人が警察官の捜索の際に逃亡していることについて

被告人は、乙野警部補らが被告人居宅に捜索のため訪れた際、同警部補らが警察官であることを名乗っているにも拘らず逃亡しているが、これは、被告人が執行猶予中の身でありながら、本件或いはその他の犯罪を犯したため、逮捕されて有罪となれば、執行猶予が取り消されることになることから、これを免れるために逃亡したのではないかと窺わせる事情と受け取れる余地もある。

Ⅰ しかしながら、この点について、被告人は、捜査段階から、三木証券で株式の信用取引をして、保証金の代用として株券を担保に入れたところ、追証事由が発生したにも拘らず、被告人が追証を入れないため、同証券営業社員の鈴木某が被告人に対し、「ヤクザに取立を頼むぞ。」と言っていたので、捜索に来た警察官らをヤクザであると思い込んだため、逃亡した旨供述し、また、借金の内容についても具体的・詳細に供述しており、一貫して来訪したのはヤクザ者による借金の取り立てであると思った旨供述している。

また、被告人が屋上からぶら下がって降りて来たのを見た丙野は、窓を開けて被告人に対し、「危ないから入って来い。」と声を掛けると、被告人が窓から室内に入って来て、「ヤクザに追われている。隠まってくれ。」と言ったが、丙野は、「玄関から出て行ってくれ。」と言い、丙野も被告人が逃亡した理由はヤクザの借金取り立てによるものと思い込んでいたようである。(丙野の前掲調書)

したがって、被告人の右逃走理由が単なる弁解に過ぎないのか、或いは、真実そのように思い込む事実関係が存したのか直ちには明白であるとは言い難い(主要道路に面した一一階建てマンションのベランダから屋上に上ることは極めて危険であり、場合によっては手足を滑らせて滑落し、命を落とす危険も十分あるから、単なる借金の取立を免れるために、このような危険な行動に出るのは一般的に言って不自然ではないかと考えられよう。被告人の検察官に対する平成四年四月二七日付供述調書によれば、取調べ検察官が被告人に対し、現にこのような観点から尋問していることが窺われる。しかしながら、ヤクザの絡んだ債権取立において、ヤクザが債務者の身柄を拉致したり、債務者に対して執拗な暴力が加えられたりすることは、民事裁判においてしばしば耳にするところであり、また、債務者がこれを免れようとして危険を省みない方法で逃亡を図り、却って事故に遭遇したということも決して珍しいことではないのであるから、被告人のかような言い分を直ちに単なる弁解であると極め付けることは危険である。)。

Ⅱ しかるに、捜査当局は、執行猶予中の身である被告人が執行猶予の取消を免れるためにその刑責を否認するところの単なる弁解であると考え、被告人の具体的に主張するこれらの事実の有無について(被告人のいう証券マンの存否・取引・追証事由の発生の有無、ヤクザに取立依頼した旨被告人に告知しているのか否等)、裏付捜査を行った形跡が証拠上一切窺えないばかりか、A子とB子の各供述内容には何らの不可解な点がないと鵜呑みにしたと思われても仕方のない形で本件捜査がなされているように窺える。

仮に、裏付捜査が行われていれば、被告人の検察官ないし司法警察員に対する各供述調書にこの点が指摘され、問答形式等によりその尋問内容が録取されるものと思われるが、これらの調書にはそれがなされていないし、また、右裏付捜査がなされれば、被告人の右言い分に関する裏付捜査の報告書等も作成され、これが検察官から証拠請求されて然るべきであるのに、検察官請求証拠等関係カードにはこのような証拠の記載がなされていないことからも、右裏付捜査が行われなかったことが窺えるのである(犯行を否認する被疑者に対しては、被疑者のなす供述の裏付捜査を行い、これが単なる弁解に過ぎないことを客観的証拠等で崩し、被疑者対し、その供述の矛盾を明らかにすると共に否認を翻させるよう努力し、改めて真実に合致する内容の供述を求めて行くことが、被疑者取調べの核心となるものと思われる。)。執行猶予中の被告人が一歩誤れば死と直面するような極めて危険な方法によるマンション一一階ベランダからの逃走は、確かに被告人が覚せい剤等の犯罪を行っていたと疑わしめる行動とも受け取れるのであるから、被告人の弁解が裏付捜査により否定されれば、被告人としては新たに合理的な説明をせざるを得なくなるのであり、これにより、捜査が更に真実に一歩近づくことになると言える。そして、仮に、被告人が本件公訴事実と同一性を有しない別個の犯罪を犯していたとすれば、このような地道な捜査の積み重ねにより、その具体的な端緒を得ることも可能となるのである。

そして、前判示のとおり、A子とB子の各証言には看過し得ない矛盾点・疑問点があるうえ、本件が前掲の如き客観的証拠もない事案であり、被告人が当初から犯行を否認しているのであるから、その捜査を遂行するに当っては、被告人の主張する事柄について、万全を尽くした裏付捜査を遂げる必要があるにも拘らず、これが行われた形跡が窺えないことは、誠に遺憾であったと言わざるを得ない。

Ⅲ  また、本件において、仮に、被告人が、乙野警部補らにおいて被告人の犯した犯罪に関して被告人居宅を捜索するために訪れたと察知したことから、同居宅から逃亡したとしても、このことのみをもって、被告人が同宅においてA子とB子の両名に対して覚せい剤を注射し、これを裏付ける証拠物件である注射器等を持ち出したとまで認定することはできない。

七  被告人供述の信用性

1  被告人は、取調段階から一貫して本件公訴事実を否認している。

2  被告人は、捜査段階において、本件事件当日、カーペットが引かれた被告人の使用している部屋で、夜の更けるまで、A子とB子及び被告人の三人でテレビを見たり、世間話や色々な話をしていたと供述し、当日被告人居宅にいたのが、A子とB子及び被告人の三人であることを明確に供述しながら(平成四年四月二四日付検察官面前供述調書)、公判になってから、Xがこれを否定する旨の証言をなしたのに合せて、第三回公判において右三名の外にXがいた旨、更に、第七回公判においてXとYがいた旨それぞれ供述を変遷するに至っているが、被告人は、供述の変遷理由として、XやYが本件事件当日に被告人らと一緒にいたことを捜査当局に話せば、彼らに迷惑が掛かるからである旨述べている。

しかしながら、Xが鴻巣警察署の留置場に勾留中の被告人のところに面会のため訪れたのは、被告人が同警察署員に依頼してXに面会に来て欲しいと求めたからであり(なお、Xの五回証言によれば、同人は同留置場に二回面会に行っている。)、仮に、Xに迷惑が掛かるというならば、当時被告人は本件以外にも覚せい剤取締法違反の嫌疑をかけられているのであり(それ故、当日乙野警部補らにより被告人居宅の捜索がなされている。)、しかも本件事件について被告人が否認しているのであるから、Xが被告人の知人として面会に来れば、捜査当局にある程度マークされる虞れも十分考えられ、したがって、面会に来て欲しいと頼むことそれ自体でXに迷惑を掛けるのではないかと思われるし、更に、公判の途中になってから、自己の無実を証明するためには、Xに証人として出廷して貰うなど迷惑を掛けても已むを得ないと思い、Xの存在を弁護人に話したというのであれば(被告人の第七回公判廷における供述)、何故にYの存在についても弁護人に告げなかったのか、極めて疑問が残る。

また、被告人は、Xの存在を捜査官に述べなかった理由として、「A子やB子が三人だったと言うならそういうふうにしちゃえば良いというようなことで嘘を付いた。」と供述しているが(被告人の三回供述)、捜査段階から無実である旨主張している被告人としては、捜査官に対して自分の無実を証明する有力資料となるXの存在をまず第一に語るものと思われるのであり、したがって、被告人の右供述部分は、無実であるにも拘らず公判請求されている者の考えることとしては誠に信じ難いことであり、本件事件当日、被告人居宅にA子とB子及び被告人の三人以外にもXらがいた旨の変遷された被告人の供述部分は、到底信用し難いものである。

八  総括

1 以上検討したとおり、被告人のA子及びB子に対する覚せい剤注射事実を裏付ける証拠としては、右両名の各証言のみが存するだけであると言えるが、前判示のとおり、これらは迫真に迫る具体的なものであるとは言い難いうえ、看過し得ない矛盾点・疑問点も多々あり、到底信用できるものとは言えないから、右両名の各証言のみをもって、被告人の覚せい剤使用の事実を認定することはできないし、右各証言の裏付けとなる状況証拠も存しない。

2 およそ覚せい剤を注射する方法により使用した場合には、現場から注射器や注射針、更には、覚せい剤を包んでいたパケとか残量覚せい剤が他の場所に持ち出されたり、廃棄されない限り、現場にいる者が所持しているか、犯行現場に存するはずである。

本件は、被告人居室において、被告人がA子及びB子に対して覚せい剤を注射したというのであるから、被告人或いはA子かB子が、これに用いた注射器や注射針、更には、パケや残った覚せい剤等を同所から持ち出さない限り、右犯行現場である同居室内に残置され、或いは同所に残っていたA子ないしB子が所持しているはずであるが、本件犯行当日に警察官により、犯行現場及びその近隣について懸命な捜索がなされたにも拘らず、これらの物件が一切発見されておらず、しかも、被告人の逃走経路・逃走態様からして、被告人がこれらの物件を被告人居室のあるマンション及びその周辺外に持ち出すことは極めて困難であったと言わざるを得ない。

3 確かに、本件犯行当日、被告人居宅にX及びYがいた旨のXの証言及び被告人の供述は信用し難く(なお、被告人の供述が信用し難いからといって、これがため、A子及びB子の各証言の信用性が高められるというものでもないし、ましてや、このことのみをもって本件公訴事実が立証されるというものでもない。)、また、本件当時懲役刑の執行猶予中の身である被告人が乙野警部補らが捜索に来た際、マンション一一階のベランダから屋上の縁に手を掛けて攀じ登るなど一歩誤れば死と直面するような極めて危険な方法により逃走しているなど、被告人が覚せい剤等何らかの犯罪を行っていたと濃厚に疑わしめるような行動に出ているが、本件においては、被告人がA子及びB子に覚せい剤を注射した事実が存するならば、被告人居宅及びその周辺から注射器や注射針、或いは本件で使用した覚せい剤を包装していたパケ等が発見されるはずであるにも拘らず、これが発見されなかったという客観的事実が重視されなければならないのであり、これが未発見であり、これについて合理的な説明が尽くされていない以上、到底本件公訴事実が合理的な疑いを入れない程度にまで証明されたと認めることは困難である。

九  結論

以上によれば、本件公訴事実について、結局犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に無罪の言い渡しをすることになる。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官加登屋健治)

別紙〈省略〉

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